▼122mm榴弾、同断面、子弾運搬砲弾(対戦車攻撃用)断面、薬莢
■性能緒元
口径 | 121.92mm(4.8インチ) |
砲身長 | 4.284mm(マズルブレーキ含む)、3.634mm(マズルブレーキ除外) |
牽引時全長 | 7,862mm |
牽引時全幅 | 2,157mm |
牽引時全高 | 2,080mm |
戦闘時全長 | 7,004mm(射角0度) |
戦闘重量 | 2,627kg |
牽引時重量 | 2,669kg |
初速 | 618m/秒 |
発射可能砲弾 | 榴弾、ERFB弾、子弾運搬砲弾等 |
砲弾重量 | 21.76kg(榴弾) |
装薬重量 | 3.0kg |
最大射程 | 15,600m(榴弾)、19,000m(ERFB弾) |
最小射程 | 3,700m |
最大直射距離 | |
発射速度 | 7~8発/分 |
俯仰角度 | -3~+65度 |
方向射界 | 左右各27度 |
要員 | 8名 |
牽引速度 | 30km(路上) |
83式122mm榴弾砲は54式/54-I式122mm榴弾砲の後継として開発された中国独自開発の122mm榴弾砲である。54式の後継としては1960年代に63式122mm榴弾砲(射程15km)が開発されたとの情報もあるが、この榴弾砲に関する情報は少なく、その開発経過や配備状況に関しても不明である。54式の後継としては改修型の54-I式がその地位に着き、54式シリーズは1950年代から1980年代まで中国軍の主力榴弾砲の地位を占めていた。
83式を開発したのは山西省の太原炮廠であり、開発主任は馬福球技師。馬福球は1970年代に行われた54-I式122mm榴弾砲の開発にも参加しており、この開発で得られた駐退複座技術等の技術と経験は83式の開発に活かされることになった。太原炮廠では54-I式の開発と並行して、射程15km級の新規設計の122mm榴弾砲の開発にも着手していた。当時、毛沢東の後継者と目されていた軍の実力者林彪は、次世代の中国軍の野砲は軽量化されるべきであると主張していた。この林彪の主張に基づいて新型122mm榴弾砲の目標重量は1.8トンと、現用の54式の2.5トンより700kg軽量化されることが決定された。新型122mm榴弾砲の開発にあたってはいくつかの解決すべき問題があった。第一は、射程延長のために炸薬量を増やすと砲撃の際に大きなマズルフラッシュが発生して被発見率が高まること。第二は、炸薬を増加すれば射撃時の衝撃も増加し、それに耐え得るように各部の構造を強化すれば砲重量が増えて軽量化の目標が達成できなくなる点。第三は、砲架の車輪に装備する衝撃吸収装置の開発。これは砲の牽引時に振動で砲が損壊しないための装置であり、車両による高速牽引には不可欠な装置であった。これらの問題を解決するための研究は文化大革命の混乱期にも継続して行われていた。開発のポイントは射程延伸と軽量化を両立させるための反動吸収効率の高い後座装置の開発であった。その後、砲兵科は砲重量の軽量化に関しては要求を緩めたが、射程の15kmへの延伸は必ず達成すべき目標であることを開発陣に指示した。
上述の基礎研究の後、1970年から71年にかけて新型122mm榴弾砲の各種要目を決定し試作を行う開発の第3段階に入った。砲兵科が提出した開発要目は、射程延伸を最大の目標とし、重量軽減に努め最悪でも54式と同程度に押さえる、砲を設置した状態での全周旋回を可能とする、というものであった。新型122mm榴弾砲は競争試作になり、太原炮廠が第一方案、西北機電工程研究所が第二方案を提出した。
西北機電工程研究所案は海外で実施されていた新技術を積極的に導入した意欲的なものであった。西北機電工程研究所はアメリカのM102榴弾砲やソ連のD-30 122mm榴弾砲を参考にした設計案を提示した。この案ではD-30と同じ構造の3脚式砲架が採用され、砲を設置したまま全周旋回が可能であった。一方、太原炮廠の案では従来型の開脚式砲架が採用されており射界は左右27度に留まった。ただし、西北機電工程研究所案の砲架は従来型の開脚式に比べて重量が増加し、全備重量が3トンを超えてしまった。西北機電工程研究所は、射程延伸の要求に対しては、当時各国で実施されていた射程延伸技術が検討された結果、ロケット推進砲弾は弾頭重量の減少や命中率の低下の問題から採用せず、ERFB弾を採用することにした。
太原炮廠案では、従来型の開脚式砲架が採用された。これは砲架の構造を簡素化し全備重量を軽減するためであった。太原炮廠案も最終的に2,627kgと、54式の全備重量よりも約200kg超過したが、その超過重量は西北機電工程研究所案より少ない量で抑えられた。ただし従来型の開脚式砲架を採用したことで、砲の全周旋回は不可能になってしまった。太原炮廠では論議の結果、全周旋回を可能にするには砲架の再設計が必要であり全備重量の増大は免れないと判断し、競作での不利は承知の上で全周旋回を諦めることを決めた。
太原炮廠と西北機電工程研究所は試作砲を完成させ、軍の評価試験を受けた。その射撃試験の際に、西北機電工程研究所の榴弾砲は軍の要求を満足させることができなかった。ただし弾薬と砲弾の弾道設計では、西北機電工程研究所が開発したERFB弾の方が高い評価を受けこちらの砲弾が採用されることとなった。最終的には太原炮廠案の優位が確認され、砲兵科も全周旋回の要求を取り下げたことで太原炮廠案の採用が決定された。太原炮廠案は83式122毫米榴弾炮として制式採用され、翌1984年の建国35周年軍事パレードでその姿を初めて一般に公開した。
83式の構造は54式の基本構造を継承したオーソドックスなものである。口径は29.8。砲架は従来型の開脚式砲架で、爆風除けと防弾を兼ねた防盾が装着されている。砲の俯仰角調整ハンドルは砲架右側、左右角度調整用ハンドルは砲架左側に設置されており、直接/間接照準器は防盾左側に設置されているが、これは54式とは反対になっている。重量軽減と射程延伸を両立するためには砲の反動吸収能力の向上が必要であり、そのため衝撃収集効率の高い新型マズルブレーキと駐退複座機が開発された。マズルブレーキはソ連のM-46 130mm加農砲のものに類似した多孔式で衝撃吸収率は30%前後であった。駐退複座機は、54式122mm榴弾砲と同じく砲身を挟む形で上下に駐退複座機を配置する形式を採用したが、駐退複座機の機構を改良したことで54式で問題になった駐退複座機の動作不良は解決され、反動吸収能力も向上した。閉鎖器は、鎖栓式閉鎖器を採用し、装弾以降の各工程は自動化され発射速度の向上に貢献している。射程の延伸に務めたことで、最大射程は15,600m(榴弾。重量21.76kg)、19,000m(ERFB弾)と、54式の11.8km(榴弾)、15.3km(ERFB弾)を大きく上回るものになった。発射可能な砲弾の種類は、榴弾、ERFB弾、対戦車攻撃用の子弾運搬砲弾等がある。子弾運搬砲弾は1980年代に配備された対戦車攻撃用砲弾であり、砲弾に収納したトップアタック用の子弾を敵部隊上空で散布するもので対戦車・対人攻撃に高い威力を有していた。この砲弾は83式の他、54式/54-I式122mm榴弾砲や、70式122mm自走榴弾砲(WZ-302)などでも使用が可能。信管は榴-7引信を使用。間接射撃のほか、対戦車戦闘を想定した直接射撃も可能。83式の牽引は「解放30」トラックによって行われる。牽引状態から射撃可能になるまでの所要時間は1分強。
83式は師団レベルの砲兵大隊における標準的野砲として配備された。一個砲兵大隊は18門の83式を保有する。83式は、54式/54-I式122mm榴弾砲を代替する榴弾砲として配備が開始されたが、その後、より射程の長いソ連のD-30 122mm榴弾砲をベースに開発された86/96式122mm榴弾砲(W-86/PL-96/)が採用されたことで、中国の122mm榴弾砲は二系統の砲が並存する状況となった。この86式122mm榴弾砲は、NORINCOがソ連のD-30 122mm榴弾砲をリバースエンジニアリングして国産化したものであった。両者を比較すると、射程は86式の方が長く(榴弾18km、ERFB弾21km)、83式が諦めた射撃体勢での全周旋回も可能。ただし、83式は86式よりも600kg軽量であり、道路事情の悪い地域での運用は83式が優位であると見なされている。83式は中国軍への配備のほか、スリランカ等の国々に合計170門輸出されている。
【参考資料】
兵工科技 2006年2月「卒生打造中国的”戦争之神”-国産83式122毫米榴弾炮総設計師馬福球専訪」
Chinese Defence Today
全国文化信息資源共享工程「中国83式122毫米榴弾炮反坦克殺傷子母弾」
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